「家族の健康のために、無添加のハムを選びたい」
そう考えるのは、とても自然で素晴らしいことです。しかし、「昔の伝統的な製法=無添加」であり、「亜硝酸塩は現代の化学が生んだ異物」だと思われているなら、それは少し誤解があるかもしれません。
実は、ハムやソーセージの本場ヨーロッパの歴史を紐解くと、紀元前の昔から人々は「亜硝酸塩」の恩恵を受けてきました。
なぜ、先人たちはそれを使い続け、現代の科学もまた「必要だ」と結論づけているのか。今回は、感情論ではなく、歴史と科学のファクトから「亜硝酸塩」の本当の姿に迫ります。
1. 紀元前のローマ人が愛した「赤い塩」の正体
「昔は化学物質なんてなかった」と言われますが、物質としての「亜硝酸塩」は自然界に大昔から存在していました。
紀元前2世紀、古代ローマの政治家カトーが記した『農業論』には、すでに豚肉の塩漬け(ハムの原型)の製法が記されています。当時、人々が使っていた天然の「岩塩」には、不純物として「硝石(硝酸カリウム)」が含まれていました。

この硝石が肉の中で微生物の働きにより「亜硝酸塩」へと変化します。当時の人々は、化学式こそ知りませんでしたが、経験則として知っていたのです。
「この塩を使うと、肉が腐らず、鮮やかな赤色が残り、時間が経つほど美味しくなる」と。
つまり、私たちがイメージする「伝統的なハム」とは、無添加の肉ではなく、「岩塩由来の亜硝酸塩によって熟成された肉」のことなのです。
2. すぐ足元にいる「ボツリヌス菌」と、真空パックの罠
なぜ、そこまでして「亜硝酸塩」が必要だったのでしょうか?それは、致死率の高い食中毒菌「ボツリヌス菌」との戦いの歴史があったからです。
「ボツリヌス菌なんて、滅多にない特殊な菌でしょう?」と思われるかもしれませんが、実は彼らは土壌や川など、私たちのすぐ足元にいるごくありふれた菌です。当然、豚肉などの原料にも付着しています。
ここで現代の「真空パック」という技術が、意外な落とし穴になります。ボツリヌス菌は、多くの雑菌とは真逆で「酸素が大嫌い(嫌気性)」な菌です。

清潔だと思われている「真空パック」の中や「ソーセージの中心部」は、彼らにとって最高に居心地の良い繁殖場所となってしまうのです。
もし、ここで「亜硝酸塩」というブレーキ役がいなかったらどうなるか。見た目は綺麗でも、パックの中で猛毒が作られ、命に関わる事故につながりかねません。「真空パックがあるから安心」ではなく、「真空パックだからこそ、亜硝酸塩による制御が不可欠」。これが食品科学の常識です。
3. 「発がん性」よりも恐れるべきもの
「それでも、亜硝酸塩の発がん性が心配」という声もよく耳にします。ここで重要になるのが「量」と「リスクの比較」です。
実は、私たちはハムを食べなくても、日常的に大量の亜硝酸塩を摂取しています。それは「野菜」からです。
ほうれん草や白菜などの野菜に含まれる硝酸塩は、体内で亜硝酸塩に変わります。その量は、ハムなどの加工肉から摂る量よりもはるかに多いことが分かっています。それでも私たちが野菜を食べるのは、健康上のメリットがリスクを上回るからです。

- ボツリヌス菌のリスク:発生すれば、呼吸困難などを引き起こし、最悪の場合は死に至る「即時の危険」。
- 亜硝酸塩のリスク:国が定めた厳しい基準値(一生食べ続けても影響がない量)以下であれば、科学的に「無視できるレベル」。
ハム作りにおいて亜硝酸塩を使うことは、「どこにでもいる菌による致死的な食中毒を防ぐために、管理された最小限のリスク(野菜より少ない量)で安全を買う」という、極めて理にかなった選択なのです。
⚡️ 衝撃の事実:無添加でも「亜硝酸ゼロ」ではありません
ここで、あまり知られていない科学的な事実をもう一つ。
実は、検査機関で精密な分析にかけると、「発色剤無添加(無塩せき)」として売られているハムやソーセージからも、微量の亜硝酸塩が検出されることがよくあります。
理由はシンプルです。「自然界や、調理工程そのものに存在するから」です。
- 岩塩・海塩:微量の硝酸塩が含まれます。
- 原料の肉:豚の体内(血液や筋肉)にも微量に存在します。
- 燻煙(スモーク):これが意外な盲点です。薪を燃やして出る煙の成分(窒素酸化物)が、肉と反応して自然に亜硝酸へと変化します。
⚠️ 「野菜エキス(セロリパウダー)」の意外なリスク
さらに、無添加ハムの製造において「野菜エキス」や「セロリパウダー」が代用されることがありますが、ここには大きな落とし穴があります。
野菜に含まれる硝酸塩の量は、収穫時期や土壌によってバラバラです。そのため、これらを使って発色させようとすると、亜硝酸の生成量がコントロールできなくなる(制御不能になる)リスクがあるのです。
実際、こうした製法が一般的な海外(特にアメリカ等)では、「無添加(No Nitrate Added)」と表示された製品の方が、通常のハムよりも高い数値の亜硝酸塩が検出されてしまったという皮肉な事例や、規定値をオーバーしてしまうリスクが報告されています。
「純粋な亜硝酸塩(添加物)」は、0.01g単位で正確に計量し、安全な濃度を厳密に管理できます。
「管理できない自然」と「管理された科学」。
本当に安全なのはどちらなのか、冷静に考える必要があります。
4. 日本特有の事情:食肉文化の「経験不足」と「不安ビジネス」
なぜ日本においてのみ、これほどまでに「亜硝酸塩=悪」というイメージが定着してしまったのでしょうか?そこには、日本特有の2つの歴史的背景があります。
① 食肉文化の歴史が「浅すぎる」
欧州では、2000年以上前から「肉を保存すること」は命がけの技術でした。彼らは長い歴史の中で多くの食中毒による死者を出しながら、「なぜ塩漬けが必要なのか」を身体で学んできました。
一方、日本で本格的にハムやソーセージが家庭に普及したのは、戦後、あるいは明治の文明開化以降であり、**たかだか100年程度**のことです。「なぜそれが必要なのか」という本質的な理由(安全確保)を知らないまま、完成品としてのハムだけを受け入れてしまったため、表面的な「添加物の有無」だけで判断してしまう傾向が強いのです。

② 不安を煽る情報と「無添加ビジネス」
残念なことに、この「経験不足」につけ込む形で広まったのが、一部の週刊誌やメディアによる過激な報道です。「これを食べると早死にする」「危険な添加物リスト」といったセンセーショナルな見出しは、人々の不安を煽り、雑誌の部数を伸ばします。
また、「無添加」と大きく謳うことで、他社製品を危険なもののように見せかけ、差別化を図るビジネス手法も横行しました。本来、添加物は「安全を守るための技術」だったはずが、いつの間にか日本では「不安を煽って商品を売るための道具」にすり替えられてしまったのです。私たちは今一度、メディアの扇動ではなく、歴史と科学の事実に目を向ける必要があります。
まとめ:伝統と科学が認めた「安全のための盾」
「無添加=善」「亜硝酸塩=悪」という単純な図式は、食肉加工の長い歴史と科学の前では通用しません。
先人たちが岩塩の中にその力を見出し、現代科学がその安全な使用量を確立した「亜硝酸塩」。それは単なる色付けのための薬ではなく、自然界の脅威から私たちの食卓を守るための「盾」として、数千年にわたり受け継がれてきた知恵なのです。この正しい知識こそが、ご家族の安全で美味しい食卓を守る第一歩です。
追伸:歴史への敬意として
最後に、一つだけ付け加えさせてください。
私たちは、決して世の中のすべての添加物を肯定したり、擁護したりするつもりは毛頭ありません。不必要なものは、無くしていくべきだという考えに変わりはありません。
ただ、今日まで私たちの命をつないでくれた先人たちの知恵、その歴史的事実までをも「添加物」という一言で片付け、否定してしまうことは、今の私たちがここに在る理由そのものを無視することにもなりかねないと考えています。
過去から受け継がれたバトンを、ただ「怖い」と言って手放すのではなく、その意味を深く理解すること。それが、食に携わる者の責任であり、本当の意味での豊かさではないでしょうか。
【主な出典】
- Cato the Elder: “De Agri Cultura” (紀元前2世紀)
- 食品衛生学、食肉加工学におけるボツリヌス菌の静菌作用の定説
- 内閣府 食品安全委員会:食品添加物としての亜硝酸ナトリウムに関する評価
